西米良村長として6期24年、助役として1期1年9ヵ月、通算25年9ヵ月の長きにわたり村行政に携わらせていただきましたが、令和4年4月4日をもって退任いたすこととなりました。
 この間、村民の皆様には、常に温かい激励や積極的なご協力、深いご理解を賜り、心より感謝と御礼を申し上げます。
 これまで浅学非才が故に、礼を失した言動もあったものと存じております。また、皆様の負託に応えるべく先憂後楽の精神で努めて参りましたが、十分にご期待に添えていたのか自責の念で一杯でございます。
 私は、在任の間、村の振興発展と村民所得の向上を図ることを使命と強く自覚し、全力で取り組ませていただきました。
 「ワーキングホリデー」や「温泉ゆた〜と」の開業などの観光振興をはじめ、小川地区の皆様と共に取り組みました「平成の桃源郷おがわ作小屋村」づくりでは、交流人口の増加とともに村民の皆様の活躍が、村の大きな活力となりました。
 「平成の江戸見物」、「明日への翼」では、外の世界を見聞し、村の良さを再認識していただき、村民の皆様の幸せ度の高まりや、新たな村づくりへの意欲につながったものと確信しております。
 国道219号の広域一般道路への格上げをはじめ、道路の改良促進については、関係各位の熱心なご協力で大きく前進し、今後、更なる利便性の向上につながるものと期待するところです。
 〝村の宝〟である子どもたちを賢く、強く、優しく育てる教育の充実を図るため、学力向上への取り組みやICT活用も進んでおります。
 農林業においても、後継者育成などの課題もある中、AIや高性能の機械化の試行も進められており、効率化や利便性向上の可能性も感じられるようになりました。
 私は、西米良村長をさせていただき、本当に幸せであります。優しき村民の相互扶助の精神と思いやりに守られ、助けられ、育ていただきました。我が村に息づくこの素晴らしい力は、村の「宝刀」であり、必ず未来永劫に継承され生かされていくと信じております。
 私の愛する西米良村が、いつまでも幸せ度の高い豊かな村として生き続けますことを祈念申し上げ、長年のご指導、ご協力に深甚なる謝意を表し、村民の皆様への最後のご挨拶といたします。

昨年9月の村議会で「村の振興と発展、住民の幸せづくりに進展もうかがえ、自立自走の村づくりが進んでおり、一つの節目が今と判断した」と勇退を表明した黒木定蔵村長。退任まで約2カ月となる2月上旬、6期24年の村づくりについて宮崎日日新聞社西都支局長杉田亨一さんがインタビューしました。

[就任直後に日本初となるワーキングホリデー制度を始動されたのもその構想の一環だったわけですね。]

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昨年9月の村議会で「村の振興と発展、住民の幸せづくりに進展もうかがえ、自立自走の村づくりが進んでおり、一つの節目が今と判断した」と勇退を表明した黒木定蔵村長。退任まで約2カ月となる2月上旬、6期24年の村づくりについて宮崎日日新聞社西都支局長杉田亨一さんがインタビューしました。

 選挙直前まで自分が村長になろうなんて思っていませんでした。前村長が亡くなられた当時、助役を務めていたので、立場上は後継候補だったんでしょうけど、私はJAから来て間もなかったものですから、そんな意識があまりなかったんです。
 そんな中、知らない間に後援会を立ち上げていただいていて、ある日呼ばれて会合に行ってみたら、その場で立候補のあいさつをするようにと(笑)  びっくりしましたけどそれで腹が決まりました。
 村長になるに当たっていくつか構想を持っていましたが、最初から言い続けてきたのが交流人口の創出です。進行する過疎への対策として、外から村に来てもらい、その人たちの新しい感覚とエネルギーによって雇用を増やそうと考えたわけです。
 もう一つは観光振興です。就任当時は材価が低く、村の主要産業である林業は厳しい状況でした。農業に目を向けてみても、田んぼや畑は一定の面積しかありません。そこで着目したのが観光です。
 村に足を運んでもらい、お金を落としてもらえればコストがかからないし、手取りもいい。村全体の総所得を上げるには観光振興しかないと考えたんです。


就任直後に日本初となるワーキングホリデー制度を始動されたのもその構想の一環だったわけですね。

 西米良型ワーキングホリデーは、村の知名度向上に大いに貢献してくれました。
 コンサルをお願いしていた前田豪先生が持って来てくれた話だったのですが、私自身、それ以前にオーストラリアを訪れたことがあってワーキングホリデーのことを知っていたんです。それで、おもしろい、やってみようとなったんです。
 そこからは大慌てで準備しました。よそのまちでも始めるという話が耳に入ってきたものですから。だって、〝日本初〟と〝二番目〟とではマスコミの食いつきがまったく違うでしょ。実際、マスコミの方々にたくさん取り上げていただいて、西米良村の名を全国に知ってもらうことができました。
 その後の「ゆた〜と」開業や、「かりこぼうず大橋」の完成もあって、それまでは多い時でも年間4〜5万人だった観光客が一気に15〜16万人に増えていきました。


いわゆる「平成の大合併」では合併をめぐる議論があったかと思います。村の行く末を左右する課題でしたが、村は自立の道を選択しました。

 合併をするか否かの選択は、130余年の村史において大きな転換期でした。結果としては約8割の村民が合併に反対。「このまま西米良村として頑張っていこう」ということになったのですが、今振り返ってみてもその判断は間違っていなかったと思います。
 私が合併をよしとしなかった一番の理由は、村に役場がなくなってしまうからです。地元に役場があって、村のことを知り尽くし、村を良くしていこうとする職員が行政サービスを提供するのと、遠く離れた場所にいる役所の職員が提供するのとでは質が大きく違ってきますからね。
 辺地であることもあって、もともと「我が村をなんとかしたい」という思いを持った村民が多いのですが、自立という選択によってその思いがさらに強くなったと感じています。もし、合併していればその気持ちは弱くなっていたでしょうし、そうなれば、人口は今の半分以下になっていたのではないでしょうか。


1998年初当選時の選挙活動


平成21年には平成の桃源郷「おがわ作小屋村」が開業。〝平成の桃源郷〟というキャッチフレーズはその後、村全体を象徴する言葉としても使われるようになりました。

 自立していくために村の良さをどう生かしていくかを考えたとき、都会の生活に疲れた人たちが足を向ける場所をつくれるのではないかと思ったんです。
 そこで、前田先生に、「花も実もある人生」、そんなテーマで何かできないだろうかと相談してみたところ、「桃源郷」の話はどうでしょうかと。それでさっそく中国へ向かいました。
 訪れたのは上海から3千㎞も内陸に入った「シャングリラ」という農村。ここが桃源郷ではないかといわれる場所です。そこには木があって、川があって、石があって。人々は自然と共生し、心を煩わせることもない。私たちの村に通じるものを感じました。そして、その光景と西米良人のやさしさをベースに作小屋村をつくったんです。


村民の幸福度を高めるソフト事業も積極的に推進されてきました。

 わたしたちが生きる目的は幸せになることだと思うんです。人は心の中に感知器を持っていて、きれいな花や景色を見たとき、人のやさしさに触れたときにその感知器が振れるんです。その感知器をたくさん振るわせてあげて、幸せになってもらいたい。そんな思いで実施したのが高齢者の「平成の江戸見物」と若者のヨーロッパ視察「明日への翼」です。
 江戸見物は、高齢者が何十年も前に植えた杉を売った資金で実施して喜んでいただけました。東京に一番詳しいのが私だったので、1回目は道中ずっと同行したのですが、横浜の中華街や熱海、山中湖をめぐって、富士山が見えた時にはみんな拍手ですよ。村に帰ってきたらみんな元気になっていましたねぇ。
 「明日への翼」は、費用の多くを村有林の間伐材の売却代金を当てました。先人が山をつくってくれたのは、いつまでもこの村が続いて欲しいという思いがあったから。その思いを形にするために木を切り、若者の育成のために使うことは許されるだろうという勝手な解釈で(笑) 若いうちに異文化に触れて世界観を広げることはとても大切なことですからね。


江戸見物の写真


インターネットでユズの販路を独自開拓したり、グランピング施設を立ち上げたりと、若い方の活躍が目に付きます。村に新たな活力をもたらしている若者にどのような印象を持たれているでしょうか。

 今まで生きてきたやり方が、今後ずっと通用するかというとそこは難しいと思います。共存共栄や相互扶助といった精神は極めて大事なことではありますが、その精神ですべてをやっていける時代ではなくなりました。これからは、競争、競合の中で成長していかなければ生き残っていけません。それをできるのが若者なんです。
 西米良の長い歴史と豊かな山村文化を誇りにしながら、自由な発想や感性で世界に目を向けてもらいたい。そして、菊池の教えである、「須らく浩然の気を養い 須らく天下の魁と為すべし」の気概を持ってこの村の未来をつくっていっていただきたい。お手伝いできることは何でもしますよ。


勇退まであと約2カ月となりました。改めて今の思いをお聞かせください。

 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。細川ガラシャの辞世の句ですが、今はそんな心境です。
 後任に上手くつなぐことを考えたら、ここまでやれるというところの一歩手前でやめることが最善です。元気な間であれば、これまで培ってきたパイプをつなぐこともできますし、相談されることがあれば対応もできます。必要とされたときに力になれるようにしておく。それが私の責任だと思っています。
 これまで佐藤一斎先生の「春風を以って人に接し、秋霜を以って自ら慎む」という言葉を胸にやってきたのですが、村職員のみなさんにもその意識を持ってもらえるよう厳しくしてきました。いつか殺されるんじゃないかと思うくらいに(笑)  でも、みんな本当に成長しました。職員の質はそんじょそこらの自治体には負けませんよ。
 最後になりますが、ご希望に添えない部分もあったかもしれませんが、自分的には充実した村長生活を送らせていただきました。我が人生に悔い無しとまでは言いませんが、それに近しい思いでいます。
 村民のみなさまにはいつも前向きに協力していただいて、助けていただいて、本当に幸せでした。感謝の言葉しかありません。

聞き手:宮崎日日新聞社
西都支局長 杉田 亨一さん


表彰一覧
過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞(2000)/日本観光協会「優秀観光地づくり賞」(2002)/ 「オーライニッポン大賞」審査委員会長賞(2004)/地域づくり総務大臣表彰「地域振興部門」(2005)/毎日新聞地方自治大賞優秀賞(2006)/地域づくり表彰「国土交通大臣賞」[小川作小屋村運営協議会](2013)/「オーライ! ニッポン フレンドシップ大賞」[小川作小屋村運営協議会](2014)/第48回日本農業賞表彰式「食の架け橋部門特別賞」[小川作小屋村運営協議会](2018)

※村長在任中に、西米良村の取り組みが認められ表彰されたもの


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