野球が息づくまち、都農町。草野球のチーム数は、人口割りで県内一を誇る。「都農の野球熱はすごい―。」なぜすごいのか。どうすごいのか。受け継がれる野球を探ると、そこにはまちづくりへの可能性が見えてきた。

都農町に野球熱が注がれるきっかけは、「宮中対延中」

[戦後初めての日米野球!? 「都農クラブ」が快進撃!]

野球が息づくまち、都農町。草野球のチーム数は、人口割りで県内一を誇る。「都農の野球熱はすごい―。」なぜすごいのか。どうすごいのか。受け継がれる野球を探ると、そこにはまちづくりへの可能性が見えてきた。

都農町に野球熱が注がれるきっかけは、「宮中対延中」

 明治36年7月。延岡中学校(現延岡高校)が、師範学校(現宮崎大学教育学部の前身)と宮崎中学校(現宮崎大宮高校)に野球の試合を申し込んだ。そこで、試合場所として選ばれたのが、距離が中同地点である本町だった。これが、のちに「宮中対延中」として語り継がれる定期戦の始まりであり、都農町に野球熱が注がれるきっかけになったといわれている。

 都農町史には、「先生は馬車、生徒は徒歩で来ていた」「都農小学校の児童は両校に二分して応援をし、試合後は交流をした」と記されている。同40年には、都農小学校が延岡の学校に野球の遠征試合をしたという記録も残っている。その後、野球が地域に浸透していった理由を、当時の様子を父親から聞いたという黒本高輝さん(78歳) と、永友主税さん(79歳)は、「宮中対延中をこぞって見に行っていたじいちゃんやおやじの子どもたちが、大きくなって野球をするようになった。見よう見まねで子どもたちに教え始めたのだろう」と話している。


戦後初めての日米野球!? 「都農クラブ」が快進撃!

 終戦後の昭和20年、都農町にアメリカ進駐軍が来ていた。その軍の人と都農町民とで野球試合をすることになった。

「これが、日米野球の試合としてはひょっとして全国でも初めてなんじゃないだろうか」と話す2人。

 都農の人たちはまだきちんと したルールも知らない状態だった。アメリカチームはさすがに強かったという。 そんな進駐軍からの影響も受け、同23年、若者たちが都農クラブという野球チームを発足させた。県内の大会では常に上位に入るほどの戦力を誇った同クラブ。入部希望者は多く、川南町から自転車で練習に通ってくるメンバーも数人いたという。全盛期といわれた同27年には、県代表として、九州大会や西日本大会などに出場し、7本の優勝旗を持ち帰った。
 全国大会の旅費は自費になるため、西日本大会でわざと負ける試合をして、審判に怒られたというエピソードもある。 強くなるにつれ、まちの人たちの応援にも熱が入ってきた。同年、後の県議会議員となる横内行男さんが後援会長に就き、中町に開店したパチンコ店の利益を大会の遠征費などに充てた。
「試合が近づくと、パチンコ台のくぎを細工して玉を出さないようにし、野球のためのもうけを出していた。メンバーにくぎ職人がおったからお手の物よー」と2人が笑いながら話してくれた。
 客も、それを分かっていながら寄付のつもりで来店していたという。 また、九州場所巡業中の大相撲力士を呼んだり、当時中町にあった映画館「旭座」に劇団を呼んだり、時には部員総出演で芝居をしたりと、資金面でもさまざまな努力をした。 クラブ組織は資金繰りが難しく続かない中、同33年、都農クラブは10年間の活動が評価され、軟式野球連盟から全国表彰を受けている。


熱い町民性に火がついた! 野球チームが78チームに!

 伝統の夏祭りに象徴されるような熱い町民性もあってか、都農クラブの活躍に刺激を受けた人たちが職場や地区で次々と野球チームを結成するようになった。野球をするために都会から都農に帰って来た人もいたという。

 同30年から40年代には、職場や地区単位の職域対抗野球大会や国道で町を二分しての職域東西対抗軟式野球大会などが開かれた。  一方、同50年ころから、県内では本町が比較的早く、高齢者がソフトボールを始めるようになった。チーム数も除々に増え、壮年ソフトボール選抜正月大会の資料によると、同57年、第5回の大会時には、壮年シニア合わせて78チームの参加があり、人口の約1割である延べ120人が登録していたとなっている。 当時の役員であり、現町体育協会長の大原勉さん(82歳 駅通)によると、「景品をめぐって大変な盛り上がりを見せ、まちの一大イベントだった」という。
 51年、野球関係者の念願だった町當摩見公園球場が新設。平成2年には、ナイター設備も完成した。


子どもから高齢者まで熱中する都農の野球熱

 現在、町軟式野球連盟に登録している職場や地区の32チームが、年間5つの大会で熱戦を繰り広げている。人口約1万150人のまちに32の草野球チーム。これは、人口割りで県内一だ。数ある大会の中でも、草野球の甲子園として、多くのチームが代表に選ばれることを目標にしている、宮日早起き野球大会の出場枠は、人口約40万人で76チーム出場の宮崎市が4枠あるほかは、延岡市、日向市、東諸県郡(綾町・国富町)、小林市が2枠、それ以外の地区は1枠ずつになっている。都農町には3枠設けられている。
 選手だけでなく、北町出身の猪殿整さん(佐土原高校教論)は県高校野球連盟理事、三日月原出身の木下豊さん(会社員)は県副審判長を務めるなど、県野球界の中心人物として活躍している。町内でも子どもたちに都農の野球文化をつなごうと情熱を注ぐ野球経験者がたくさんいる。子どもから高齢者まで幅広い年代で楽しみ、熱中する都農の野球熱は、現代でもまちの至るところで生きながら、脈々と受け継がれている。


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100年もの歴史を誇る都農町の野球文化。一時期は78の野球チームが存在した【野球熱 vol.1】 写真

miyazaki ebooks編集部

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