400年も前の時代、天正遣欧少年使節としてヨーロッパの地へ降り立った伊東マンショ。立派に外交の使命を果たし、8年5カ月の長旅を経て帰国しました。

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 マンショを正使とする天正遣欧少年使節は、彼らが13歳のころ長崎の港を出港して以来 実に8年5か月の長旅を経て帰着しています。しかし、戦乱とキリスト教弾圧の嵐は彼等の運命を翻弄し、その存在は長く歴史のひだに埋もれてしまったかのようでした。

 日本人として初めてヨーロッパの檜舞台に立ち、立派に外交の使命を果たした彼らの数々の偉業が、歴史学者によって再認識されたのは明治になってからです。

 400年も前の時代、帰国できる保障もないままに、彼らはその生命を賭けて航海へ赴いたのでした。世界帝国の君主フェリーペ2世に謁見し、ローマ法王グレゴリオ13世からヨーロッパ諸国と同等の最敬国待遇を受け、ルネッサンスの文化につぶさに接したことは歴史上たいへん意義のあることです。


 マンショが西都の都於郡出身であることがわかったのは昭和に入ってからです。島津との戦いに敗れ、居所であった都於郡城を失うという悲劇は、当時わずかに8歳であった満所の心にどのような影響を与えたのでしようか。有馬のセミナリオ(神学校)で信仰への無上の喜びに目覚めた満所は、日向国一円を支配した武門の一族である誇りを決して忘れることなく、数々 の試練の航海を耐え抜き、強靭な精神力でヨーロッパの土を踏みました。

 その足跡は今もなお鮮やかにヨーロッパの地に残されており、日欧交渉史の中で彼らがパイオニアとしていかに優秀な少年たちであったかが伝わってきます。

 都於郡城は中世の歴史を語るうえで重要な位置にあり、またマンショが育った場所でもあります。その曲輪跡に立ち、ゆたかな九州山地に向かうとき、船旅でマンショが胸に描いていたであろうふるさとの姿がよみがえります。国際化の時代を迎えた今も、その功績は私たちの心に感動を与えてやみません。


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