一帯の山を光で埋め尽くし、「山が動く」と形容された出の山公園のホタル。
全盛期にはひと夏で10万人を超える観賞客があった。
今、激減していたホタルの数が、戻りつつある。
「またいつかあの頃のように」。
そう願い動く人がいる。
4年ぶりに復活したホタル恋まつりに足を延ばしてホタルが生存している素晴らしさを肌で、心で、感じたい。
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一帯の山を光で埋め尽くし、「山が動く」と形容された出の山公園のホタル。
全盛期にはひと夏で10万人を超える観賞客があった。
今、激減していたホタルの数が、戻りつつある。
「またいつかあの頃のように」。
そう願い動く人がいる。
4年ぶりに復活したホタル恋まつりに足を延ばしてホタルが生存している素晴らしさを肌で、心で、感じたい。
開田事業を実現させた着眼力とフロンティア精神
水利に恵まれなかった野尻町では、田丸貞重翁が私財を投げ打って旧小林市から水路を完成させ、稲作ができるようになりました。この医大な先達のフロンティア精神は、後世の人々に引き継がれ、野尻町は県内でも有数のメロン、そしてマンゴーの生産地となりました。宮崎県野尻地区は、昭和の初めごろまで果てしなく広い畑と原野の台地で、水に乏しく、陸稲(畑に栽培される稲)、栗、大豆、甘藷(薩摩芋)、麦、菜種など畑でつくることができる作物を中心とした農業が営まれていました。この当時、他のどの作物より高く売れたのが米でしたから、村の人々はとても貧しい生活をおくっていました。稲作をしている他の村の人々は豊かな生活をしていました。そのため、貧しい農業から脱け出すためにはどうしても水田稲作が必要で、農民の水田稲作に対する願望は相当なものでした。どうしても野尻原開田事業をあきらめきれなかったのが田丸貞重翁でした。貞重翁は、農民の豊かな生活の礎は、畑と原野を開墾して水田化を実現することであるという考えを持っていました。そこで貞重翁は、農民を集めて野尻原開墾の必要性を説きました。自らの資財をすべてつぎ込んで、農民たちと野尻村独自の野尻原耕地整理組合を昭和四年(1929年)七月に立ち上げ、野尻原開田事業の着手に向けた実施設計書を完成させました。工事にたずさわった人々は、貞重翁の郷土愛に満ちた業績をたたえ、通水した最初の水をくみ上げ貞重翁の墓にささげて、通水の報告をしたということです。
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