[河童ん壷(がぐれんつぼ)]
三股町の河童伝承
三股町には、どのような河童伝説が伝わっているのか。
次に紹介するのは、全て 『三股町史』に掲載されている話である。
河童ん壷(がぐれんつぼ)
勝岡城が廃城(1615年)となってから、ある日のこと、勝岡郷・田中某の下男が、勝岡城三の丸に馬をつないでおいた。そして、その夕方、馬を連れに行ってみると、馬の手綱は解かれ、その手綱の端を河童がくるくると巻いて遊んでいた。これを見た下男は、そのまま馬も河童も一緒に連れて帰り、河童は馬小屋の柱に縛り付けておいた。当の河童は、馬草を与えに来る田中家の女中を恨めしげに、また悲しげに見ていたので、女中はたまらなくなって、いつもニゴリ(台所の汚水)を河童の顔から浴びせ掛けていた。数日後、河童は水恋しさのあまり、ついに綱を断ち切って逃げたが、4、5日間、水無しで命をつないできた上に、綱を断ち切るのに最後の力を振り絞ったのであろう。「河童ん壷」までたどり着くと、そこで事切れてしまった。
その後、田中家では、馬が死んだり、病人が出たりといろいろな災難が続くので、占ってみたところ、河童のたたりだという。そこで、さっそく三の丸跡の南端に墓碑を建てて供養したところ、田中家は安泰になった。
ところで、この河童の供養碑であるが、その後の土砂崩れのために、どこに埋もれたか分からなくなったという。
地頭桜と河童
梶山・切寄の地頭屋敷に次のような昔話が伝わっている。
ある夏の日に、地頭の子どもが屋敷の下の深い淵に水浴びに行ったまま、夕方になっても帰宅しない。そのため地頭夫婦は気も狂わんばかりに嘆き悲しみ、これは疑いなく、河童にさらわれ肝を取られたのであろうと、さっそく入水師(水潜りの上手な人)に命じて、河童狩りを行った。その結果、入水師たちは、1匹の河童を生け捕りにして帰って来た。そこで、人々は竹の皮を剥いで縄をない、それで河童を庭木の桜につないで苦しめた。体が干からびて半死半生状態の河童。そこへ地頭屋敷の女中がやって来て、「稚児さまをさらったやつは、こん外道(この悪魔)か」よ行って、炊事場のニゴリを河童の頭にぶっ掛けた。ところが、河童は久しぶりに水気に当たって急に元気づき、縄を断ち切って逃げた。この時に河童は、桜が桜であり、川竹が川竹であるうちは人獲りはせぬ(しない)と言ったという。
御崎猿と河童どん(みさきざるとがらっぱどん)
御崎神社は昔、仮屋の御崎原にあった(1988[昭和63]年7月に、仮屋地区住民により、同地[仮屋農村広場の東隣]に再建されている)。そのころ境内の樹木はうっそうと茂っていたが、ここの林の中に人懐こい老猿が住んでいて、村人たちから「御崎猿」と呼ばれていた。
一方、長田の仮屋川や牧野川には、たくさんのガラッパ(河童)が住んでいて、人目を盗んでは、馬の肝を抜いていた。
御崎猿とガラッパたちは、仲が悪く、事あるごとにけんかし、そのたびに半死半生の状態になっていた。ガラッパが六刻(12時間)川に潜ると言えば、御崎猿は十二刻(24時間)潜ると言って、その勝負はなかなかつかなかったという。村人が御崎原を通って牧野に行くと、人懐こいこの猿は木から下りて付いて来る。村人は、ガラッパとけんかしないように、御崎猿を背中に背負い、手拭いをかぶせて、川の上の一本橋を渡っていたという。
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