[千手興欽の藩公に対する進言は…]

 高鍋藩政のなかで注目すべき人材育成、発掘のひとつの方法に存寄がある。十七世紀末ごろから顕著に見える施策で、家中士に積極的に藩政に対して献言(意見の具申)、献策をさせる「下意上聞」の体制である。

 それは上士ばかりではなく、下級役人あるいは庄屋・町部当まで、それぞれの立場から意見を出し、あるいは意見を求め、出された献策にはすぐに適否を検討し、優れたものは採用実施する体制であった。

 そのためには、領内の実情をよく知り、時代の動きに適応した存寄が出せる人であること、それを聞くことが出来る人であること、そして適正な判断が下せる人物であることが求められた。

 高鍋藩では上士よりも検者、代官など中間層の実務家に優れた人材が育ったといえるが、この人たちによって藩士の教育、藩校・明倫堂の教育も推し進められたので、さらにより優れた実務者が育った。


千手興欽の藩公に対する進言は…

服装の論議

 元来、学校は礼儀が第一の所であり、藩領内の「礼譲(れいじょう)」の風俗の源となる所であるから、幼年といっても礼服を捨てさせることは出来ないと考えます。ここは城内にある学校のことであり小学校とはいっても領国の柱となる所であり、白衣での出席を許しては、まずここから礼儀がすたれ礼敬が薄くなり、生徒の心身、内外ともにゆるみ、教育が成り立たないと考えられます。

→ 平日は桍を着用して登校するよう命ぜられた



昼食持参の論議

 四つ時(午前10時)から生徒が出席し、九つ時(正午)過ぎに退出したのでは一日に六つ時のうち、やっと一つ時(2時間)少し余り、学校に居ることになり、その他の時間は徒然として遊山泳水する状態では全体、成長の為によくない。特に素読や手習い等が出来ないと云う者は、八つ時(午後2時)まであっても学校に居るようでなくてはならない。それで幼年の者は昼食を持参しなくては耐えられないと考えます。とにかく富驕は身につきやすく習慣となり易いが、質素は身につくのが難しい。各々、小弁当を自分で持参するようにしたい。

→ 祖飯の持参に遠慮がないように取り計らうようにとの藩主の言葉であった。


 藩校の共通点として小・中・高・大学の一貫教育で、小・中学校程度と高校・大学あるいは大学院の二つに分かれます。小学の1年位から入り、最初は素読から始めるので、素読所と言われます。大学の方は講釈所とも言われます。講釈所では先生がたくさん講義するのではなく、学生たちで本を読んで、いろいろ議論し合ったりする自主学習が中心でした。


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