[室町時代中期~安土桃山時代初期]
平安時代初期~室町時代中期
古く日向国財部(たからべ)と呼ばれたこの地は荘園時代(奈良時代から鎌倉時代)には、新納院島津荘に属した。九世紀半ばには、県(あがた/現在の延岡市)の役人であり、有力者であった土持氏が勢力をつけ財部(現在の高鍋町)に居館を構えた。その居館が「財部城」と呼ばれたという。土持氏の財部支配は約600年に及んだ。
室町時代中期~安土桃山時代初期
十五世紀に入ると日向の中原をめぐる争いが激しくなり、長禄元年(1457年)都於郡(とのこおり/現在の西都市)に本城を持つ日向地頭伊東氏に攻められ支配下に入った。以後120年問、伊東氏の持城となった。
安土桃山時代初期
天正五年(1577年)に伊東氏が、薩摩・大隅・日向三国の守護である島津氏に追われて日向から逃れた後は島津領となり、10年間管理下におかれた。
安土桃山時代初期~明治時代初期
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐により、薩摩の島津氏が降伏した。その後、島津氏と盟約を結んでいた秋月氏は、筑前秋月(現在の朝倉市)から財部城に入城した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いでの功績によって幕府から領土所有を認められ「高鍋藩」が成立した。初代藩主に秋月種長が居城し、以後明治の廃藩に至るまで約280年間、秋月氏代々の居城となった。
種長は慶長十二年(1607年)から本格的な財部城築造を始め、二年後には詰の丸に三層櫓を建設している。
三代藩主・種信(たねのぶ)は寛文九年(1669年)城の修復を幕府に願い出ている。この時に財部城から高鍋城と改称された。寛文十三年(1673年)から約六年をかけて、門、堀、政庁など近代的な城郭として整備している。
廃藩置県(明治四年/1871年)以降、高鍋城は取り壊され、石垣、城堀など一部を残すのみとなった。
石垣、石段は当時のまま現存している。
高鍋城跡
三の丸、二の丸、本丸の境にはいずれにも白の築地塀があり、通称「舞鶴城」と呼ばれていた。現在は舞鶴公園として町民に親しまれている。
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パームスが、県内市町村にエールを送る本コラム。今回は歴史と文教のまち、高鍋町です。児湯の町村の中でも、やはりどこか城下町の香り。治めていたのが秋月家、なんていうのもちょっとカッコイイよね。主観でスミマセン。
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時代の動きに敏感であること それを聞くことができること 適正な判断が下せること 高鍋藩三万石、それも三ヵ所に領地が分散している小藩が、存続していくための知恵を生み出す制度